結果を手放す

結果を手放す


最近は信仰に興味を持ってイスラム教に触れている。
そこで面白かったのが、ムスリムは努力の結果が悪くても思い悩んだりしないらしい。
これは同志社大学の内藤さんという中東を専門にする人が言っていたのだが、結果は神の思し召しであって、神が望んだから悪い結果になったんだ、と。
そして、イスラム教の神というのは、人間には想像もできないような大きな存在なので、神の意思について考えることは無駄なのだ。
だから、良くも悪くも自身と結果を切り離すことができ、それが必要以上の自責やメンタルの悪化を防いでいるようだ。


これが日本やキリスト教であれば、原因と結果は切り離せない。
結果は自身の行いに密接に結びついているため、悪い結果は自身の行い、もしくは自分そのものが悪いことから来ているのだと考えがちだ。
我々は自己責任的な考え方が染み付いている。
その結果、毎年3万人が自殺している。


似た考えに、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。
これもやる事さえやれば、後は自分の預かり知らぬことだ、というわけだ。
神を失った現代人はあまり言わなくなってしまったが。


勝間和代氏は「入力に集中して出力は手放す」という話をしていた。
これはもう少しストア哲学に近い考え方だ。
ストア哲学は「自分のコントロールが及ぶ範囲に集中して、それ以外は気にするな」という考えだ。
勝間氏も、コントロールができる入力だけに集中して、コントロールできない結果を気にするなと言っているわけだ。


古今東西、似たような考え方はあるものだ。
共通していることが、精神を病まないためには結果を手放すことの重要性ということだ。
神の存在によるものか、哲学的思索の結果なのかは違えど、結果というのは自分の手の届かないものなのだから、気にしても仕方がないのだ。