清潔感は孔雀の羽仮説

清潔感は孔雀の羽仮説

孔雀のオスは羽が美しいほどモテる。
理屈はこうだ。


羽が美しい孔雀は自然界では天敵に見つかりやすい。
美しい羽は一見、生存上のデメリットに見える。
しかし、それほどのデメリットを抱えながら生き残っているオスは、それだけ生存能力が高いことの証明にもなる。


という理屈らしい。

あえてハンデを背負って戦うのは、何となくアホな感じもするが、現実として派手な羽のオスがモテている。


同じことが人間のオスでも言えるのではないか。
従来的な見方をすれば、清潔感は病気を持っていないように見えるとか、健康な遺伝子を持っているように見えるから良いのだとされている。


確かにそれは事実だろう。
しかし、今回は別の側面から仮説を立てる。


一人暮らしをしている人なら分かると思うのだが、働きながら家事をして、身なりを整えて、散髪や歯医者に行って、体を鍛えて、服は定期的に買い替えて、などなど。

清潔感を維持するのはとても難しい。
3日程度であれば容易いが、清潔感を維持し続けるというのは、現代社会で至難の業なのだ。


技術が発展して、昔に比べると労働時間も随分と短くなったし、家電は生活の効率を上げた。
清潔感の維持は年々容易になっている。
という訳ではない。
求められる清潔感のレベルもまた、長い目で見ると上がり続けているのだ。
昭和の男性であれば、肌の綺麗さなんて大して見られなかっただろう。
肌ケアをしている男性は極一部だ。
同様のことが、服装でも髪型でも、爪の長さや口腔ケアでも言える。
女性でも同じく清潔感の平均レベルは上がっている。


要は、清潔感とは、同世代の平均よりも清潔に見えること、と言い換えても良い。
だから、清潔感を維持するコストは技術革新が起こってもそれほど低下しない。


長くなったが、結論はこうだ。
清潔感を維持するという決して低くないコストを払いながらも生活が営めるオスは、それなりの能力を持っているとメスにアピールできるのだ。
孔雀の羽と同様に、生存に決して必要不可欠ではない部分にコストをかけるハンデを背負うことで、自信の有能さをアピールしているというわけである。


これが馬鹿馬鹿しくなったり、結婚して清潔感のコストを払っても、相応の見返りが得られなくなったオスから、不毛な競争を降りていく。
そうして人はおじさんになるのだ。
清潔感にコストかけてもおじさんから逃れられないかもしれないが、コストをかけ続けているおじさんと、降りたおじさんでは全く別の生き物なのだ。
どちらになっても良いが、コストをかける日常を選ぶのなら、それなりのモチベーションが求められる。
現代社会では決して褒められはしない原始的な欲求を内側で燃やし続ける必要があるのだ。