老いて醜くなってまで生きながらえたくない
老いて醜くなってまで生きながらえたくない
ぼくの親類を見ていると、60歳を超えるとちょっとずつ壊れていく。
理性的な考えができなくなったり、感情のコントロールが効かなくなったり、不安を制御できなくなる。
結果的に、ぼくは親も含めてほとんどの親類と絶縁状態にある。
元々大した人たちではなかった。
社会的な地位があるとか、すごい学位を持っている、なんてことはない。
世間で言うろくでなしに近い人たちだっただろう。
それでも60位までは、それなりに話ができた記憶がある。
60を超えると、少しずつ壊れていき、崩壊は加速度的に進んだ。
耐えきれなくなったぼくは、縁を切ることにした。
恐ろしいことに、彼らには壊れている自覚がない。
自分が正常なまま、対するぼくや世間がおかしくなったのだと思っている。
これは本当に恐ろしいことだ。
老いれば隠居生活をして大人しく暮らすとか、これ以上認知機能が低下しないように運動や通院をする、なんて考えには至らない。
なんせ彼らは自分がまともだと思っているからだ。
人間の崩壊は、崩壊がはじまる前にしか対策ができない。
少なくともぼくの周りはそうだった。
もっと理知的な人とか、家族関係が良好な人であれば、やりようはあるかもしれない。
でも、ぼくの親類はそうではなかった。
ぼくは、彼らのようにはなりたくない。
今までは若いうちからなるべく健康的な生活を送り、崩壊を予防しようと考えていた。
けれども、それと同時に、一定ラインを下回ったときには、安楽死でもしたいという考えがわいてきた。
自死する場合でも、理性があるうちでなければ、事は成せない。
一定ラインを下回ると醜い生物となって、現代の福祉の中で生命維持をせざるを得なくなる。
こんな生活をしていれば早死にするな、なんて言っている人がいるが、若いうちに死ねるなら悪くはないと思う。
怖いのが、健康な体やまともな知性を失って自己決定を行うラインを早々に下回り、誰にも望まれない生を、醜態を晒して送り続けることだ。
そんなことは嫌なので、ぼくは健康的な生活を送りたい。
ウォーレン・バフェットのような聡明でパワフルな老人に憧れはあるものの、ぼくの周りにそのような幸せはない。
野生動物のように、一定ラインを下回れば死ぬという意識は常に持っていたい。