貧乏人ほど目の前の小さな金に支配される

金にとらわれず生きていきたい、とは誰もが思うことだけど、凡人が金から自由になるには、適度に金に余裕がないといけない。

金に余裕がない人間ほど、目の前の小さな金に飛びついて長期的に損をする。

清貧なんて言葉は、人格的に優れた人間にのみ当てはまる理想論だ。

 

たとえば、貧乏で今日の食費にすら困る人がバイトをしているときに、レジの金を抜くことがあるとする。

まともな人なら、普通にバイトをしていればそんなことをするよりも稼げることを知っている。

しかし貧乏人にその判断はできない。

これが数万円の話なら、正常な判断を下せる人は少なくない。

でも、数十万、数百万、数千万と増えたときに、目の前の金に屈するタイミングが訪れる。

 

自分がどれだけの金に屈するのかは、その人の稼ぎによる。

それがその人の器である。

貧乏な人が金を持って豹変するさまを何度も見てきた。

寛容になった人も、目を背けたくなるほど醜くなった人もいる。

 

たかだか金で人間性がはかれるか、とはいうものの、リアルな金を目の前にして、変わらずいられる人は少ない。

金に対する器が大切で、貧乏人の器は概して小さい。

金から自由になりたいのなら、金を稼ぐなり、金を稼ぐ能力を身につけて、普段目にする程度の金には動じない器を作り上げるほうが、清貧に耐えうる精神を作り上げるより簡単だと思う。

 

そして、資本主義社会とは、いかに金に屈せず合理的にいられるか、あるいは狂い続けていられるかという、器の戦いなのだと思う。