パスタに湯切りザルは要らない

パスタには湯切りザルは必要ない。

ラーメンであればスープが薄まるので、よく湯切りをする必要がある。

パスタは茹でた麺をフライパンでソースと合わせる作業がある。

多少水分が残っていても、フライパンで水分調整ができるので問題ない。

トングで鍋からすくってフライパンに移してやればいい。

 

湯切りザルを使わない最大のメリットは洗い物が減ること。

湯切りザルは大きいので、手間が大きく節約できる。

また、鍋のお湯が冷めてから捨てればいいので、火傷のリスクを減らせる。

 

パスタの塩分調整は塩ではなく、茹で汁を使うことが多い。

お湯を捨てる→ソースと合わせる→塩分調整

という手順だと、お湯を捨てる前に茹で汁を別に取っておく必要がある。

それだと更に洗い物が増えるので、トングで鍋からフライパンに移す方式の手間の節約効果はかなり大きい。

ビジネスゴシップも避けよう

ビジネスゴシップというものがある。

経済や金融のニュースというのは、なんとなく価値がありそうに見える。

でも、実のところその殆どは週刊誌のタレントの不倫や交際のゴシップと大差がない。

どこの会社がどんなことをしたとか、有名な社長があんなことをしたとか。

でも実のところ、そんなことを知ったところで、自分の生活は何も変わらない。

結局のところ、他人の言動を追いかけて時間を無為にしているに過ぎない。

この手のビジネスゴシップは、ゴシップと同様に避けるほうがいいと思っている。

 

ゴシップの定義を簡単に述べると

・速報性が高い

・時間が経つと情報の価値はほとんどなくなる

・自分とは無関係な他人の成功や失敗をことさらに取り立てる

 

というものであって、どんなラベルがついていようが、こういうものは役に立たない。

しかめっ面で勉強している風を装おってゴシップを追いかけるのは、無益なだけでなく滑稽だと思う。

健康のためにストレッチはすべきか?

健康のためにストレッチはすべきか?


結論としては、固すぎるならする方がいいかもしれない。


最近の科学では、運動前のスタティックストレッチはやめたほうがいいということが分かっている。
スタティックストレッチとは、世間で言う普通のストレッチ。
開脚とか。


運動前のスタティックストレッチはパフォーマンスを下げる。
20秒以下ではパフォーマンスを下げないという研究もあるが、ダイナミックストレッチが推奨されている。


今回考えるの運動パフォーマンスではなく、健康である。
主に加齢(と運動不足)の影響で筋肉が固くなることに対してストレッチをすべきだろうか、ということである。
昔の一般論では、筋肉は柔らかければ柔らかいほど良いという認識だった。
しかし、現在の科学では柔らかすぎる筋肉は有害である。
180度開脚などは、腱や関節に悪影響ということだ。


反対に硬すぎる筋肉はどうだろうか。
これも悪影響を与えることになる。
肩関節を動かさないでいると、四十肩や五十肩と言われる状態になる。
これを防ぐにはストレッチがいいと言われている。


これらを鑑みると、硬すぎず柔らかすぎない程度にストレッチをするのが良いということになる。
後はどの部位をすべきだろうか。
肩周りは四十肩の問題があるのでやったほうが良い。
現代人はスマホやPC作業で胸周りが固まっている。
これが巻き肩の原因と言われる。
だから、肩周りと胸周りのストレッチをやるのが良さそうだ。


反対に腹直筋などは固くなりすぎることがないし、あまりメリットはなさそうだ。
体幹部は大きく動く関節がないし、柔らかすぎるとパワーを発揮できないと言われている。
そもそも、体幹部はあまり柔らかく動く構造になっておらず、過度に柔らかくすると腰痛の原因になるとも。


そう考えると人体で大きく動かす関節はやはり肩周りと、股関節周りになるだろう。


ストレッチは1回30秒×3セット
週に3回程度
風呂上がりにやるのがいいと言われている
運動前は避けて、痛みの出ないくらいの強さでやる
ストレッチの効果は、1ヶ月続ければ1ヶ月ほど続く。しかし、時間とともに筋肉は固くなっていく。
つまり、継続することが何よりも重要、というわけだ。

競技(競争)志向をやめる

競技(競争)志向をやめる


はじめは競技のために始めたわけじゃないことでも、継続するうちに競技志向になっていくことがある。


たとえばスポーツ。
健康のために運動を始めたものの、やってるうちに大会に出たくなり、そのうち大会で成果を残したくなる。
この傾向はいたるところにある。
プログラミングでも、ゲームでも。


競技志向で得られるものもあれば、失うものもある。
勝利の喜びや栄誉は競技でしか得られないかもしれない。
失うものとしては、楽しさだったり健康だったり、勝利以外の全てを失うリスクがある。


たとえばスポーツの例だと、健康のためのスポーツと勝つためのスポーツは別物だ。
勝つためには体を酷使したり、ハードな練習が必要になる。
健康のために始めたのに、体を壊すことにもなりかねない。


ボディメイクなんかはこの最たるものだ。
ボディビルやフィジークなどのボディメイクで上を目指そうと思うなら、関節を酷使することになるし、不健康なまでの減量を行う必要がある。
大会のために日焼けで肌にダメージを与える必要もある。
更にいうと、ボディメイクの最高峰はドーピング有りの世界だ。
筋トレを始めた頃には、誰しもこんな不健康な世界にどっぷり浸かりたいわけではなかったと思う。

 


仕事なんかも似たような現象かもしれない。
はじめは飯が食えるだけのお金と、ある程度の自由と、良好な人間関係があればそれで良かった。
それがいつの間にか、年収だったりブランド力のある会社だったり、将来性のあるキャリアを求めるようになって、本来欲しかったものから遠ざかってしまう。


競技志向をやめて、自分の望む優先順位でやれば、自分の望むものが手に入る。
健康でも、楽しさでも。
大切なのは、他人の基準の満足ではなく、自分で満足できることなのだ。

空腹は最高の調味料 快楽の追求のための禁欲

空腹は最高の調味料という言葉がある。
文字通り、空腹のときに食べる食事が最も美味しいという意味だ。


快楽を追求するというとき、人は強い刺激を求める方向に向かいがちだ。
たとえば美食。
美食を追求するときは、コストを掛ける方向に向かう。
より良いレストラン、より良い食材、より珍しい調理法など。
人間は刺激に慣れる生き物なので、より強くより新しい刺激を求める。


しかし、いずれは限界を迎える。
人が美味しいと思うポイントには限りがある。
食材も調理法も限られている。
多くの人は、これらの限界を迎える前に、金銭と健康の限界を迎えるだろう。


より強い刺激を求める快楽追求を正の快楽追求としておく。


タイトルの空腹は最高の調味料というのは、正の快楽追求とは反対の快楽追求と言える。
断食をして、極限状態の空腹で食べるいつもの食事は、高級レストランで食べる食事に勝るとも劣らないはずだ。


断食にも限りがある。
人は食べずには生きていけないし、過度の空腹状態では普通の食事を体が受け付けない。


そういうときは、食べるものを質素なものにする。
より低刺激な食事に慣らしておくことで、強い刺激をより楽しむことができる。


この刺激を弱める方向の快楽追求を負の快楽追求としておこう。
負の快楽追求にはメリットが沢山ある。
・金がかからない
・健康的である
・刺激への慣れをリセットできる


大抵の場合、金は掛からないし、健康的だ。
刺激への慣れをリセットできるというのも大きい。
正の快楽追求を続けると、刺激に慣れて要求水準がどんどん高くなってしまう。
そこで負の快楽追求を挟むことで、高くなった刺激の要求水準を下げることができる。
以前より弱い刺激でも満足感が強まるのである。


負の快楽追求は正の快楽追求と同時に行うのがいいと思う。
正確には交互に。
負の快楽追求も追求すれば楽しさがあるし、テクニックも磨けるだろうが、それだけでは味気ない。
快楽を追求するほど好きなことなら、正の快楽追求もやるほうが楽しい。


書いていて思ったのが、イスラム教のラマダンは良い風習だと思う。
仏教の禁欲は永遠の禁欲を目指したものだが、ラマダンは限られた期間だけ断食を行う。
断食明けには豪華な食事を摂る。
これは、日常の食事をより楽しくするための、負の快楽追求とも言える。
ぼくは宗教に詳しくないので、誤解を含むかもしれない。


人間には慣れがあり、慣れは幸福を遠ざける。
いかに慣れを克服するかは幸福の鍵だと思っている。
どんなに豪華な食事でも、良い住まいでも、魅了的なパートナーでも、慣れてしまうと輝きはくすむ。
定期的に負の快楽追求を行って、自分の身の回りのものがいかに良いものか実感するのは、不幸を避けるよい手段だと思っている。

ネットサーフィンをやめたい

ネットサーフィンをやめたい

ネットサーフィンはメリットよりもデメリットの方が多いなと感じている。

理由
1. 情報の質が低い
2. 時間が無くなる
3. 自分と向き合う時間が減る

特に3が大きいなと思っている。

1. 情報の質が低いについて
ネットの情報はコストがあまり掛かっていないものが多い。
特に、話題の中心にあるのは、時事的なもので、流行っている瞬間には価値があるかもしれないが、時間が経つと価値がなくなるものが多い。
この手の情報に触れるなら、最新でなくてもいいので、本のようにコストが掛かっている情報を読む方が満足度が高い。


2. 時間がなくなる
人生の可処分時間はそう多くない。
ぼくはあまり労働時間が長い方ではないが、それでも時間が足りないと感じる。
例えば、8時間寝て、2時間食事をとって、その他の家事を1時間で終える。
仕事を仮に8時間とすると、合計で19時間。
一日の残り時間は5時間しかない。
移動時間とか、排泄とか、そういう時間もあるだろうから、ここから更に少なくなる。
たった5時間という可処分時間を質の低い情報の摂取に使うというのは、とても無駄に感じる。


3. 自分と向き合う時間が減る
これが一番大きい。
外からの情報を取り込むばかりでは、自分と向き合う時間が減る。
自分の感情や欲望や思考と向き合ったり、自分のプロジェクトを進めたり。
ある程度のインプットがある人であれば、物事を考えたり、楽しむためのリソースは既に持っていたりする。
外向きに情報を収集するのもいいけれど、内向きに、内省や実践に時間を使うほうが、自分の人生にとってはプラスになると思う。


どうネットサーフィンと向き合うか、という話に関しては、ネットと常に繋がるという前提をやめるのがいいと思っている。
常時繋がるのではなく、普段はOFFにしておいて、必要なときだけONにする。
使い終わったらまたOFFに戻しておくというイメージ。
情報に触れたくなったとき、まずは本を探してみる。
たまにネットサーフィンをするのもいいけれど、それは特別な贅沢や娯楽として接する方がいいと思う。

格闘技は好きだけど、格闘技は盛り上がらないほうがいい

 

理由
1. 健康に悪い。健康寿命を削る
2. ドーピング検査が緩い
3. 負の外部性が大きい
4. 稼げない

ここでいう格闘技とは、主に頭に打撃を加えるものをさす。

1. 健康に悪いということについて

格闘技の目的は、相手の人体を壊すということにある。
ボクシングを例に取ると、パンチで相手の脳を揺らして起き上がれないようにすることを主たる目的としている。
頭部に衝撃が加わると、脳が揺れる。
脳が揺れるたびに、脳の神経が破壊される。
一度破壊された神経が再生することはない。
パンチを受ければ受けるほど、脳機能が低下していく。
自分や他人に分かるほど脳機能が低下したらパンチドランカーというわけだ。
パンチドランカーは格闘家だけに起こる現象ではない。
アメフトやサッカーでも起こる。
サッカーでは一試合で数回あるかないかのヘディングでもパンチドランカーになる人はいる。
これがボクシングでは一試合48分で100回を超えることもある。
こんな危険な競技が盛り上がるということは、より多くの人が脳機能の低下に晒されるというわけである。


2. ドーピング検査がゆるい
格闘家とドーピングはセットだ。
格闘家でもドーピング検査は行われるが、その中身はとても緩い。
ドーピング検査が最も厳しいのはオリンピックだ。
四六時中選手の居場所を監視して、抜き打ちで採尿や採血をして検査する。
これはめちゃくちゃコストがかかる。
オリンピック競技のような採算性のないアマチュア競技でもドーピング検査ができるのは、オリンピックには公費が注入されているからだ。
東京五輪のように。
格闘家でそれだけコストをかけてドーピング検査できるのはUFCくらいだ。
そのUFCでもドーピング違反者はチラホラ出るし、そもそも殆どの格闘家はUFCで戦うことすらままならない。
ドーピング検査のゆるい他競技の選手や、下積み時代のMMA選手はドーピング検査の緩い場所で戦うことになる。
オリンピックの陸上競技でドーピング違反者に負けたとしても、せいぜいお金や栄誉を失うだけで済む。
しかし、格闘家でドーピング違反者に負けるということは、それに加えて寿命を失うことにも繋がる。
先に述べたように、頭部への被弾は健康寿命や寿命と直結しているからだ。
ドーピングをする側としても、副作用に悩まされることになる。
ドーピング検査が緩いということは、囚人のジレンマ的にドーピング使用のインセンティブが働くし、ドーピングを使わなくてもユーザーに寿命を奪われる。


3. 負の外部性がある
人体の破壊が目的の格闘技で選手が怪我をしたり、後遺症で働けなくなったらどうなるのだろうか。
正解は税金が使われるのである。
喧嘩の怪我には公的保険が使えないが、格闘技では使える。
公的保険の金の出どころは格闘技に興味のない人からも払われる。
同様に、パンチドランカーで働けなくなったときの生活保護なども税金から出ている。
日本は国民皆保険だし、生存権憲法で保障されている。
だから、意図的に人体を破壊される競技で負傷した人の世話は他の国民がすることになる。


4. 稼げない
格闘家は稼げない、とよく言われる。
ほとんどの格闘家はバイトをしているとも。
中には井上尚弥村田諒太のように億単位で稼げる人もいるだろう。
彼らを見ると夢があるように見えるかもしれない。
でも、他の競技や職業に目を向けてみよう。
野球では格闘家以上のお金を、寿命をリスクに晒すことなく稼げる選手が沢山いる。
メイウェザーやカネロはスポーツ選手の長者番付トップだぞ。
という反論があるかもしれないが、歴代トップクラスに稼ぐ彼らでも、長者番付の方に載ることはない。
経営者や投資家の方が儲かるからだ。
ほとんどの人は食えない。
成功しても大して稼げない。
大成功したとしても、命を賭ける割にはそんなに割が良くない。
金を稼ぎたいのなら、起業を志す方が期待値が高いはずだ。


人は破れていった人達には目もくれない。
井上尚弥になぎ倒される相手に同情するかもしれないが、そこまで行ける人は成功者なのだ。
スポットライトが当たることなく、金が稼げず注目も浴びることなく、ただ後遺症に悩まされる選手や元選手はごまんといる。
ぼくもそういう人を目の当たりにして、格闘技が怖くて辞めてしまった。
決して後悔していないし、人生で行った最良の決断の一つだったと自信を持って言える。
格闘技はそれなりに進歩していて、今のトッププレイヤーのほとんどは子供の頃から始めた選手ばっかりだ。
格闘技が盛り上がれば盛り上がるほど、ジムに子供を通わせる親は増えるだろう。
でも、個人的にそれは虐待に近いと思っている。
自己決定のできない子供に、脳に不可逆な損傷を負わせることに、疑問を持たない親はちょっと考えが足りない。

ぼく自身、格闘技を見るのをやめたいなと思うことが増えた。
人体の破壊を楽しみながら見るというのは、あまり褒められた行為じゃないなと思う。
格闘技ときっぱり離れられるかはさておき、記事を書く頻度は減らしていきたい。