空腹は最高の調味料 快楽の追求のための禁欲

空腹は最高の調味料という言葉がある。
文字通り、空腹のときに食べる食事が最も美味しいという意味だ。


快楽を追求するというとき、人は強い刺激を求める方向に向かいがちだ。
たとえば美食。
美食を追求するときは、コストを掛ける方向に向かう。
より良いレストラン、より良い食材、より珍しい調理法など。
人間は刺激に慣れる生き物なので、より強くより新しい刺激を求める。


しかし、いずれは限界を迎える。
人が美味しいと思うポイントには限りがある。
食材も調理法も限られている。
多くの人は、これらの限界を迎える前に、金銭と健康の限界を迎えるだろう。


より強い刺激を求める快楽追求を正の快楽追求としておく。


タイトルの空腹は最高の調味料というのは、正の快楽追求とは反対の快楽追求と言える。
断食をして、極限状態の空腹で食べるいつもの食事は、高級レストランで食べる食事に勝るとも劣らないはずだ。


断食にも限りがある。
人は食べずには生きていけないし、過度の空腹状態では普通の食事を体が受け付けない。


そういうときは、食べるものを質素なものにする。
より低刺激な食事に慣らしておくことで、強い刺激をより楽しむことができる。


この刺激を弱める方向の快楽追求を負の快楽追求としておこう。
負の快楽追求にはメリットが沢山ある。
・金がかからない
・健康的である
・刺激への慣れをリセットできる


大抵の場合、金は掛からないし、健康的だ。
刺激への慣れをリセットできるというのも大きい。
正の快楽追求を続けると、刺激に慣れて要求水準がどんどん高くなってしまう。
そこで負の快楽追求を挟むことで、高くなった刺激の要求水準を下げることができる。
以前より弱い刺激でも満足感が強まるのである。


負の快楽追求は正の快楽追求と同時に行うのがいいと思う。
正確には交互に。
負の快楽追求も追求すれば楽しさがあるし、テクニックも磨けるだろうが、それだけでは味気ない。
快楽を追求するほど好きなことなら、正の快楽追求もやるほうが楽しい。


書いていて思ったのが、イスラム教のラマダンは良い風習だと思う。
仏教の禁欲は永遠の禁欲を目指したものだが、ラマダンは限られた期間だけ断食を行う。
断食明けには豪華な食事を摂る。
これは、日常の食事をより楽しくするための、負の快楽追求とも言える。
ぼくは宗教に詳しくないので、誤解を含むかもしれない。


人間には慣れがあり、慣れは幸福を遠ざける。
いかに慣れを克服するかは幸福の鍵だと思っている。
どんなに豪華な食事でも、良い住まいでも、魅了的なパートナーでも、慣れてしまうと輝きはくすむ。
定期的に負の快楽追求を行って、自分の身の回りのものがいかに良いものか実感するのは、不幸を避けるよい手段だと思っている。