美しい顔とは、余計なものがないということ

美しい顔とは、余計なものがないということ

あの人は美人だとか、あの人は美しくないと言われても、いまいち理解ができていなかった。
でも、最近になって気づいたことがある。
美しい顔は余計なものがない顔ということだ。
たとえば、シミや皺やたるみといった加齢によって起こるものは、どれも元の顔に追加される形で発生する。
言い換えると、情報量が増えるということだ。
だから、情報量が多すぎる顔というのは、美しくないということになる。
化粧というのは、情報量を増しているようで減らしているのだ。
まず肌の毛穴や皺やシミを消して均一な質感にする。
そうしてキャンバスを整えた上で、目や鼻やフェイスラインなどのパーツを修正していく。


違和感もまた美醜に影響する。
違和感が少ないほうが美しいとされる。
過度に大きなパーツがあったり、平均から乖離した部分があると、人はそこに違和感を抱く。
違和感が大きい顔というのは、あまり美しくない。
整形依存症の人に関しても、造形的には美しくなっているはずなのに、人工感が強かったり、過度に目立つパーツがあることで不自然になる。

また、流行りの見た目は違和感が少なく、流行りの見た目から遠ざかるほど違和感が大きい。
非モテが垢抜けないのは、流行りの見た目に寄せないから、ぱっと見たときに違和感があるのだ。


これらを一言で表すと、よく言われているように平均的な顔が美しいということだろう。
しかし、情報量と違和感が少ない顔というのは、退屈な顔でもある。
没個性的な外見は美しいが退屈で、美しく刺激的な顔というのは、完璧に平均的で没個性的な顔ではない。
どこかに違和感がある、少し特徴的な顔なのだ。
特に消費社会の最先端である芸能界のようなところでは、常に刺激が求められる。
そういったところでは、完璧で没個性的な顔よりも、個性があって刺激的な顔が美しいと定義される。

これはファッションでもアートでも同じだろう。
消費社会である以上、理想的な美は次から次へと移り変わる。
そういうものだと理解した上で、自分をどういう立ち位置に置くかは考えたほうが良さそうだ。

これが男性のぼく自身にどう影響するかというと、脱毛がある。
ヒゲ脱毛がブームになっているが、ぼくはヒゲ脱毛はやらない。

情報量という観点で見ると、ヒゲは情報量を減らすことも増やすこともある。
たとえば、ヒゲがあることで一見情報量は増える。
肌の上に毛が生えているのだから、その通りだろう。
でも、ヒゲは情報量を減らす効果もある。
アラブ人のように顎髭を生やしていれば、フェイスラインをうまく隠してくれる。
本当はたるんだフェイスラインでも、うまく隠してくれてシャープに見せることもできる。

違和感という点ではどうか。
現代の標準はヒゲがないことだろう。
清潔感は大切だ。
しかし、今後は分からない。
ヒゲがあることが標準的になるかもしれない。
あるいは、ヒゲがない男性がほとんどの中で、ヒゲをはやしていることで、敢えて違和感を作ることもできる。
これが汚らしいとなるか、男性的な美意識と映るかは、その人次第だろうが。

そういうわけで、情報量と違和感のコントロール機能としてのヒゲは、優秀なものだと考えている。
流行っているから、ひげを剃るのが面倒だからといって、ヒゲ脱毛するのは、ぼくは良い考えとは思わない。

整形するとか、メイクをするとか、そういう際には当然、美しい顔とは何かという判断基準を持っておいたほうが良い。
そうでなくとも、美しい顔がどういうもので、そのためにこの行動(ヒゲ脱毛)をするべきか?優先順位は高いか?といった視点を持っておくとより良い判断が下せると思う。