論客は現代では不要

 

論客という立場の人は現代では不要なのではないかと思う。
はじめにざっくりとしたぼくの論客の定義として、様々な物事を論ずることのできる知識人、としておく。

現代では論客というのは、あまり役に立たないのではないかと思う。
なぜかというと、様々な知識が高度化し、細分化したからだ。
たとえば経済学を例にとっても、昔は経済学の研究者は同時に政治や倫理や哲学、人によっては数学や法学の研究者でもあった。
しかし、現代ではそのような人はいない。
なぜなら、経済学が高度化し、それぞれの研究分野が細分化したからだ。

つまり、現代は細分化した専門知識を持った人が知識人と言える。
と同時に、専門家は専門分野以外のことはあまり知らない。
専門家が幅広い知識を持つ論客であることはほとんどない。
裏を返せば、論客というのは、現代的な知識人とは、あまり言えない。リソースを専門性の追求ではなく、幅広い知識を広く浅く集めることに特化したからだ。
(中には広く浅い知識すら持たない人もいるが)

もう一つの観点が断言だ。
論客はとかく断言しがちだ。
よく分からないですね、とばかり言う人が論客として有難がられるわけがないので当然なのだが。
しかし、分からないことを分からない、よく知らないことを知らない、というのはとても知的な行動なのだ。
科学が発展したといっても、よく分かっていないことはまだまだ多い。
よく分かっていないことに関しては、よく分からないと言うことが正しい。
そして、知識が専門家した現代では、ある分野の専門家はある分野の素人なのだ。
化学者が政治学について詳しいわけではない。
専門家が専門分野以外の部分に土足で踏み入って、私は分かっていますよ、と言っているとき、その人は知識に対して不誠実である。
断言が多い人というのは、知的ではない、ということの裏返しでもある。
(人によっては本当に知っているのかもしれないが、私は現代の論客の発言についてあまり詳しくない)

論客が何か偉そうに話しているとき、それはたいてい、レスバトルをしているに過ぎない。
その人の肩書がなんであれ、やっていることは便所の落書きと大差ない。
それを知って楽しむのは悪くないけれど、個人的には時間の無駄だな、と思う。