穏やかな態度と人当たりの良さはお得

穏やかな態度と人当たりの良さはお得


結論・まとめ
人当たりの良さはコスパが良い。
他人に接するときは人当たりを良くしておくと得をする。

自分は他人の人当たりを取っ払って人を評価する

 

 

若い頃は礼儀を説く大人が嫌いだった。
ただ年上だからといって接し方を変えなければいけないのか。


敬語や礼儀の良さは回りくどい。
コミュニケーションコストをかけるだけで、形式だけを重視して本質を見ていない、と。


半分正解で半分間違いだった。
間違いに関しては、人当たりの良さは損得勘定だけで考えたとき、めちゃくちゃお得だということだ。


金は一切掛からず、多少の回りくどさ、コミュニケーションコストと比べて得られるものはとても大きい。

周りの大人がなぜ人当たりの良さはお得だと説かなかったのか。
子供は現実的な利得を理解しないと思われていたのかもしれないし、教師は金勘定を考えないのかもしれない。


人当たりの良さから得られる金銭的利益は、商売の大きさに比例する。
100円の商売でも、100億円の商売でも、等しく人当たりの良さは利益を運んでくれる。
商売の規模が大きくなればなるほど、人当たりの良さのコスパは良くなる。
大事を成すなら人当たりは良いほうが良い。

利益、というのは金銭的な利益だけでなく、交友関係を増やしたり、モテたり、トラブルを回避できたりと、多くの面で効力を発揮する。


人当たりの良さ・礼儀のデメリット
人当たりの良さにもデメリットはある。
1つ目は上にも書いたが、コミュニケーションコストが増えること。
世の中には礼儀を気にする人間と気にしない人間がいる。
気にする人が多いので、デフォルトで礼儀を装備しておいた方がお得だ。
でも、礼儀を気にしない人、得てしてこのタイプは有能だったりするのだが、彼らは回りくどい接し方より率直な接し方を好む。
コミュニケーションコストを小さくした方が円滑に話が進む。
こういうタイプには、礼儀を外してストレートな物言いをするといい。


あと目上の人でもフラットに接してもらうことを好む人が一定数いる。
この手の人もまた、有能であることが多い。
偉くなると地位に人が寄ってきて、地位に敬意を払われるため、一人の人間として扱われる方が嬉しいらしい。
とはいえ、世の中の多くの人はそんなに地位が高くないし、そんなにできた人ではない。


2つ目のデメリットは自分が過度に人当たりの良い人を評価しがちということだ。


人当たりの良さは自分が使うときにはメリットが大きいが、他人に使われるとその人を過大評価しがちだ。


本当は能力を見て評価すべきときに、能力の低い人たらしを高評価してしまったりする。
生意気で有能な人や、コミュニケーション能力の低い有能な人を見逃してしまいがちになる。


だから、他人を見るときは人当たりの良さを取っ払って見るほうが良い。
営業職を採用するとかならまた話は別だが。

そういうわけで、自分は礼儀や人当たりの良さを装備して、他人を見るときはそれらを取っ払って人を見る癖をつけておくと良いと思う。

茄子のアンチョビバター

https://salarymonkey.hatenadiary.jp/entry/2023/11/12/215055

 

作り方

1. 上に貼った基本の茄子の焼き方でオリーブオイルを使って茄子を焼く

2. 茄子が焼き上がったら取り出す

3. バターを投入して弱火で溶かす

4. バターが溶けたら火を止めてアンチョビを加える

5. スプーン等でアンチョビを潰してオイルに溶かしてソースの出来上がり

6. ソースを茄子にかける

7. お好みで胡椒をかける

 

ポイント

アンチョビは油に溶かすものだと習った。

油の温度が低いとアンチョビは溶けないし、油の温度が高すぎるとアンチョビが焦げて嫌な味になる。

絶妙な温度で溶かすこと。

 

アンチョビは焦げると美味しくないので、茄子とは別に加熱するのがポイント。

 

これはかなり美味しい。

美味しかったので、アンチョビバターリゾットも作ってしまった。

作り方は別記事に書く。

撤退は戦略的に

撤退は戦略的に

最近、事業領域をいくつか拡大しているが、あまりうまくいっていない。
事業というのはすぐに結果が出るものではないので、もう少し長い目で見る必要がある。


何をするにしても、大抵のことはすぐに結果が出ない。
成果のフィードバックを得るだけでも、ある程度のコミット、もしくは時間経過が必要になる。


止めなければ失敗しない、というつもりはないが、すぐに止めるのもまた、成功しないと言えるだろう。


言いたいことは、戦略的に妥当な撤退ラインを決めておく、ということだ。
すぐに結果が出ないからと投げ出してしまうのも良くないし、結果が出ないことに、いつまでもしがみつくのも良くない。


一定の期間、投下資金、残存資金などから撤退ラインを決めて、そこまでは継続するようにする。


もちろん、他にもっと良い事業などがあればリソースを振り向けても良いが、これも感情的になってはいけない。
あくまで計算が元になくてはいけない。
隣の芝生は青く見えるもので、別の道のほうが魅力的に見えるものなのだ。


そういうわけで、撤退は感情ではなく戦略に基づくべき、という話。
そもそも、何かを始めるときには、目標・目的、投下リソース、勝利条件、敗北条件、撤退ラインなどを予め決めておく方が良い。
明確でないものは、たいてい実行の中でグチャグチャになる。

BL作家の描く一般向けの漫画が好き

BL作家の描く一般向けの漫画が好き

BL作家は台詞にすることなく登場人物の心情描写を書くのが上手い。
BL作品はほとんど読んだことがないけれど、心情描写や関係性の描写が上手いなと思った作家はBL作家であることが多い。
あと、色気の描写も上手い。

 


一般向けの作家であれば、尻や胸、あるいはコスチュームといった直接的な色気、形質を描写しがちだ。
対するBL作家は表情であったり立ち振る舞いでそれとなく色気を描写するのが上手い。
恐らく作家の性的嗜好がそのまま反映されているのだと思うのだが、この作家はこういうところに色気を感じるんだな、というちょっと生々しい熱量を感じる。
色気や性的嗜好についてBL作家ほど真剣に向き合っている人はいないだろうし。


ただし、明示的でない描写は必ずしも伝わるとは限らず、読み手の感性や理解度に委ねているとも言える。
伝わらなくとも良いと考えているのかもしれない。
そして、表面的・記号的ではない生々しい、熱を帯びた色気というのは、読む側にとっては過剰なときもある。


個人的には作者の嗜好が詰め込まれた作品や、表現の巧みな作品が好きだが、人を選ぶだろうな、とも思う。

ナスの焼き方

ナスの焼き方

ナスを焼くポイント

・ナスは皮に栄養が多いため皮ごと食べる
・半分に切ってフライパンで焼く
・油を大量に使う


手順
・ナスを半分に切る
・裏と表にさいの目状に隠し包丁をいれる
・(アクが苦手なら水に5-10分つける)
・フライパンに大量に油を入れる
・火をつけずにナスを皮目を下にして並べる
・弱火で焼き目をつける
・焼き目がついたら蓋をして2分蒸し焼き
・裏返す
・油がなくなっていれば追加する
・蓋をして2分蒸し焼き
・蓋を外して焼き目をつける


後は適当に味付け。
イタリア風であれば、唐辛子とにんにくとオリーブオイルでアーリオオーリオを作ってからナスを入れてから焼く。


照り焼きであれば、醤油・みりん・酒で照り焼きタレを作って、ナスを焼いた後に煮詰める。


個人的に好きなのがマヨネーズ+中村屋食べるラー油+塩。

 

作ってないけどバターにアンチョビを溶かしたソースをかけても美味しそう。

バター+アンチョビ+パルミジャーノのとかも。


油は照り焼きならごま油、洋風ならオリーブオイルを使う。
ナスは油を大量に使うほうがうまい。
油を吸わなくなるまで油を継ぎ足す。


ガッテン式で丸焼きというのも試したが、フライパン式の方が簡単でうまい。

焼く前に切り目(皮目と反対)に油を染み込ませるというテクニックもあるが、これをすると照り焼きなどの煮汁が染み込みにくくなる気がする。

進化心理学には近寄らない

 

進化心理学はよく「人間とはこういうものだ」「人間の性質はこうだ」という説明をする。
しかし、個人的に進化心理学には眉唾だ。


進化心理学の理論には反証可能性がない。
現実の現象をうまく説明できる仮説が実は大間違いだった、という現象はデータを使った仮説検証やバックテスト・フロントテストを行った人なら嫌というほど思い知らされている。

また、鳥などの他の動物で確認される現象を人間に当てはめる、というアプローチは、他の分野では見られないような雑な適用だと思う。
マウス実験を人間に直接適用する医学は存在しない。


人間の行動という複雑な現象に対して、信頼できる証拠がなく、研究者によってどうとでも取れる主観的な仮説を軸に論を積み上げていく。
これはかなり乱暴なアプローチだと思う。


一昔前に茂木とか和田とか、脳科学で何でも解決という乱暴な脳科学の濫用が見られたが、それに近い印象を受ける。
進化心理学の本や記事はセンセーショナルで、複雑な問題に対して明確な結論を出す傾向がある。
でも、この手のやつは大抵眉唾である。

 

wikipediaにも記事があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4

結果を手放す

結果を手放す


最近は信仰に興味を持ってイスラム教に触れている。
そこで面白かったのが、ムスリムは努力の結果が悪くても思い悩んだりしないらしい。
これは同志社大学の内藤さんという中東を専門にする人が言っていたのだが、結果は神の思し召しであって、神が望んだから悪い結果になったんだ、と。
そして、イスラム教の神というのは、人間には想像もできないような大きな存在なので、神の意思について考えることは無駄なのだ。
だから、良くも悪くも自身と結果を切り離すことができ、それが必要以上の自責やメンタルの悪化を防いでいるようだ。


これが日本やキリスト教であれば、原因と結果は切り離せない。
結果は自身の行いに密接に結びついているため、悪い結果は自身の行い、もしくは自分そのものが悪いことから来ているのだと考えがちだ。
我々は自己責任的な考え方が染み付いている。
その結果、毎年3万人が自殺している。


似た考えに、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。
これもやる事さえやれば、後は自分の預かり知らぬことだ、というわけだ。
神を失った現代人はあまり言わなくなってしまったが。


勝間和代氏は「入力に集中して出力は手放す」という話をしていた。
これはもう少しストア哲学に近い考え方だ。
ストア哲学は「自分のコントロールが及ぶ範囲に集中して、それ以外は気にするな」という考えだ。
勝間氏も、コントロールができる入力だけに集中して、コントロールできない結果を気にするなと言っているわけだ。


古今東西、似たような考え方はあるものだ。
共通していることが、精神を病まないためには結果を手放すことの重要性ということだ。
神の存在によるものか、哲学的思索の結果なのかは違えど、結果というのは自分の手の届かないものなのだから、気にしても仕方がないのだ。