偏見が良くない、というのは社会の前提にあるわけだが、偏見がよくない理由としては、経済合理性と、道徳的なものがある。
道徳的なものとしては、ぼくたちの社会はある程度の平等を前提として成り立っている。
実際に平等かはさておき、平等を目指さないと暴動が起きたりして安定した社会を維持できないので、そういう建前を守る必要がある。
これは今回は置いておく。
経済合理性を考えると、単純に損をするからである。
偏見とは事実に基づかない、あらゆる先入観であるといえる。
たとえば、特定の民族や人種などの属性が、実際には劣っているわけではないのに、忌避されている場合、その属性の人達の能力はその集団においては無駄になる。
彼らの力を有効に活用できる集団よりも、弱くなってしまう。
たとえば、歴史の中では、ユダヤ人を排斥した国よりも、彼らの知能を活用したアメリカの方が、経済的にも科学的にもより力をつけることができた。
じゃあ逆に、アファーマティブアクションなど、本来の実力よりも、特定の集団が割高な評価をされている場合、これは偏見をなくす方向に向かっているのだろうか。
一言では言えないのだけど、特定の集団の能力が劣っているのは、社会の環境のせいではなく、生まれ持った適正である場合も、なくはないだろう。
この手の科学は優勢思想と結びつくので、現代では批判されがちだけれど、IQが民族ごとに異なる、ということは事実として存在する。
この場合、他にインセンティブが働かない場合、経済合理的な選択は、アファーマティブアクションで相対的に低く見積もられた集団の能力を活用すること、となってくる。
道徳的な偏見への対応と、経済合理的な偏見への対応は一致しないこともある。
個々人の話になった場合、偏見はなるべくない方がいい。
理由はどちらかというと、経済合理的な理由で。
事実を見ない人は損をする。