合理性のない教養に迎合する必要はない

上流社会に入っていくには教養が必要だ、という話がまことしやかに語られている。

たしかに教養があるに越したことはない。

しかし、我々のリソースは有限であり、あるに越したことがない程度の物事に無限にリソースをさけるわけではない。

お金持ちになったときに、ある程度の金融リテラシーがなければ不利な投資に引っかかって損をすることはあるだろう。

それは必要な教養だ。

しかし、古典を読むとか、クラシック音楽を知るとか、高級レストランに通うことが必要かと言われると疑問である。

 

その手の不要な教養がなぜ強いられるのか。

一つは、金持ちが暇だからだ。

欧州の貴族なんかは、暇で仕方がないので文化に興じていた。

それは現代でも変わらず、投資で生きているような金持ちは暇なので、教養で暇を潰す。

そして、自分の持っているものが見向きもされないというのは腹が立つので、相手にもそれを求める。

 

もう一つは、既得権益の確保である。

マナーと言われるもののように、仲間内でしきたりを作り、それを守らせる。

その文化にコストを割いて仲間に入ることに意味があると考える。

その場合の教養はあまり役に立たず、複雑である方が良い。

 

言葉遊びのようだが、これらの教養は役に立たないから教養なのである。

役に立つものは実学として多くの人が学ぶ。

それでは競争が熾烈化して差別化ができない。

役に立たない教養、合理的でないものにリソースを割きすぎると、その集団は他の合理的な集団に食われる。

没落した貴族なんかもその例だろう。

非合理的なものは、合理的なものに負ける。

 

趣味として楽しむ分には、どんなに役に立たないものでも楽しめばいい。

教養は楽しい。しかもたちの悪いことに、年をとれば取るほど面白く感じてしまうのである。

分かりやすい教科書も世の中にはごまんとある。

意図せずとも、我々の嗜好は教養に吸い取られていってしまうほどに。

それを楽しむのもまた人生ではあるが、同時にこれはもしかして、役に立たない教養なのではないか?と自問しておくことは大切だろう。

非合理的なしきたりを作り上げた、上流社会を食うことができるのは、いつの時代も合理性に賭け続けた人だけなのだ。