我々は自粛するべきか?

共同体への奉仕というのは、我々が共同体に奉仕する代わりに、共同体による庇護があるという暗黙の契約をもとに成り立っている。

要するにギブアンドテイクだ。

しかし、現状はその前提が崩壊した。

少なくとも公的医療は崩壊し、公助はあまり期待できない段階にきている。

こうなると、我々の奉仕は無償の奉仕になる。

もちろん、我々の自粛というのは、回り回って自分に返ってくるのかもしれない。

しかし、明らかにリターンが減っている状況で我々が共同体に奉仕すべきか?

 

少なくとも、奉仕しただけの見返りはなく、やったもん勝ちの世界が目の前まできている。

自助という段階に入ると、もはや我々の行動は、社会への責任ではなく、自己責任によって担保されるようになる。

自己責任なのだから、好きなように振る舞ってもいいし、自己利益の追求をすればいい。

自粛をしないことによって得られるものが大きいのであれば、経済人である我々はそれをしないという選択肢はない。

 

 

コロナに対するハイリスクな行動は、静かな反乱である。

政府に市民の要求が通るとき、それは民主的なプロセスよりも、むしろ暴動によって成されてきた。

選挙や、秩序だったデモによってではなく、目的もないただの憤怒による暴動によって。

と実践アナキズムという本には書かれていた。

 

サボタージュアナキズムの文脈では、反乱の最もよく見られる形である。

反乱運動、というのは何も武力闘争に限らない。

権力によって強制される規則を、バレないように少しずつ逸脱する。

 

お偉いさんが身内に利益供与したり、パーティーを開いている中で、真面目に自粛をすることが果たして正しいのか、判断は難しくなってくる。

 

真面目に自粛することのリターンは少なく、自粛をしない人だけが利益(この場合は金銭によらない)を得る。

我々が自粛をしたところで、直接的に還元される利益というのはごく僅かである。

合理的に考えると、コロナの拡散リスクが個々人に与える損害は微々たるものだ。

罹患したことによるリスクと、その他の自粛しないことによる利益を天秤にかけるのが、合理的な判断になってくる。

 

また、政府の市民を顧みない行動に関しては、我々が選挙を通して与えられる影響と、静かな反乱、つまり自粛のサボタージュを比較して、どちらがより有効なのかを考えたとき、前者が必ずしも有効だとは言えない。

 

医療がさらに崩壊し、あらゆる社会的な活動が成り立たなくなる。

そういう過程の中でしか、我々が顧みられることはないのかもしれない。

 

ここでしたかったのは、自粛をするな、という話ではない。

我々の行動がどういう意味を持つか、という問題の提起だ。