一つでも学びを得た失敗は元が取れてる

一つでも学びを得た失敗は元が取れてる


失敗をしたら落ち込む。
これは当たり前だろう。
でも、その反応は最善手ではない。


失敗をした後にまずやることは「今回の学びは何だろう?」と問うことである。
成功への道のりは、膨大な失敗の上に成り立っている。
学びを得ることができれば、一つ成功に近づく。


失敗をするということは、何もしないよりもずっと成功なのだ。
そこから学びを得たのならば、失敗の損失は元が取れている。


落ち込む必要も、謝る必要もない。
失敗したら今回の学びを考える。
学びが一つでもあれば失敗の元は取った。
より多くの学びが得られたのなら、大儲けである。

問題は失敗を恐れて何も学ばず、時間という希少な資源を浪費することや、学びを得て元が取れたにも関わらず失敗を嘆くことだ。


失敗から一つでも学びを得れば元は取れる。
この考えがあれば失敗を恐れることはなくなり、より多くの失敗を経て、成功に近づいていくはずだ。

たとえどんなに些細なことでも、失敗なくして向上はない。
目玉焼きを焼くことすら、失敗をくり返す必要があるのだ。

 

この概念を理解するには、成否とは別に損得の概念を取り入れるべきだろう。

つまり、失敗すなわち損ではないということだ。

失敗したけれど得をすることもあれば、失敗しなかったけれど損をすることもある。

失敗と損得を一旦切り離して、この行為に費やしたコストはどれくらいか?

資本・労働コスト・時間など。

それに対して利益はどれほどか?

経済的利益・ノウハウ・実行によって得られた他の可能性など。

と考えると恐らく良い。

 

こうして書くと、失敗という概念は、物事の理解度を低下させるレッテルのように感じる。

本当はコストやリスクとリターンが存在していて、それは0か100かという失敗/成功の2択ではない。

様々なグラデーションがあり、きちんと詳細を見ることを放棄してはいけない。

投資家のデータと起業家のデータ

投資家のデータと起業家のデータ


投資家と起業家(事業家)ではデータの扱い方が異なる。
ざっくりと違いを書く。


まず投資家がデータを扱うときの基本的な姿勢は以下の通り
1. 過去のデータが十分に存在している
2. 過去のデータは将来の予測に役立つ(再現性がある)

つまり、過去のデータを分析するのが主な仕事だろう。


対する起業家はどうかというと
1. データはあまりない
2. 過去のデータが将来の予測にあまり役立たない


たとえば、今からFacebookWindowsのデータ分析したとして、SNSやOS市場で成功する訳ではない。
それに、市場調査をして十分に勝機が見込める段階になって商品を出しても、もう時代遅れになったりする。
革新的な製品開発者は口を揃えて、
「顧客は革新的な製品を想像することはできない。だから市場調査は無意味だ」と言う。


実際に革新的なプロダクトのデータはほとんど存在しないだろう。


その場合の起業家の姿勢はこうだ。
1. 市場調査はほどほどにとにかく早く市場にプロダクトを投下してみる
2. その結果、得られたデータを分析してその後の対策を立てる


つまり、データがないからとにかくやってみて、自分でデータを取るのが起業家と言える。
だから起業家はフットワークが軽くなければいけない。


起業家はサイエンティストかアーティストか?と言われるが、どちらの要素もなくてはいけない。
過去のデータはそこまで役に立たないが、データを全く顧みない人間は舵取りができない。

起業家はとにかく試して自分でデータを取る。
それもなるべく早く。
分析はそれから。
というのが今回の結論。

ちっぽけな真実は不確かな結論に勝る

投資で生計を立てていた時期がある。

そのときに以下のことを学んだ。

 

1. ほとんどのことはよく分からない

2. よく分からないことだらけの中から、データを見て一握りの分かることを見つける

3. 専門家と言われる人達でもデータを見ていることはあまりなく、伝聞や憶測で適当なことを言っている

4. ゆえに自分で手を動かして小さな真実を見つけることが大切

 

これは現場に立っていないと、つい疎かにしてしまう。

投資ではこの原則に従わないと一瞬で金が無くなるので、嫌でも肝に銘じることになる。

だけど、投資から遠ざかると、つい怠けてしまう。

手を動かして事実からちっぽけな真実を掴むことよりも、専門家や他人の意見を見聞きして不確かでインスタントな結論に手を出してしまう。

投資でなければ成果との因果関係は曖昧になり、金が絡まないことであれば、なおのこと面倒くさい分析なんて行わない。

でも、それは怠惰であり、悪徳だ。

癖になると将来は自分の首を締めることになる。

 

ちっぽけな真実は、不確かな結論に勝るのだ。

 

 

低俗な情報はドラッグのように扱う

低俗な情報に触れることを強く禁じる


前回の記事の続き。

前回は人間は箱で、入力する情報の質が悪ければ、出力される成果物も恐らく質が低いだろう、という話をした。


今回は、可塑性という観点から論じたい。
人間は自己を確固たる揺るぎのないものだと考えがちだが、ぼくは人間はもっと揺らぎのあるものだと考えている。


自分は常に周りの影響を受けて変質し続けているのであり、今この瞬間の自分は、その時点にしか存在し得ない。
変化を続ける中のある地点が現在の自分で、次の瞬間にはまた別のものになっている。


または粘土に例えることもできる。
人や情報に触れるごとに、自分の形もまた変化し続ける。


どんなに強固な意志があれど、周りの影響を受けて変質することは変えられない。


良いものであれ、悪いものであれ、情報に触れてしまったあとは、ただ変質するだけである。
我々にできることは、触れる情報の取捨選択をすることだけだ。


低俗な情報に触れ続ければ、自分もまた低俗なものになるだろうし、素晴らしい情報に触れていれば自分もまた素晴らしいものに近づいていく。


ここで言う情報とは、単にコンテンツのことを指すのではなく、周りにいる人も含めて、全て情報といえる。


だからこそ、低俗な情報に触れることは強く禁じるべきだろう。
ドラッグと同様に低俗な情報と距離を置くべきだ。
ドラッグをやれば、元の自分には戻れないように、低俗な情報に触れると、それ以前の自分には戻れない。


低俗な情報に触れるくらいなら、一人で目をつむってぼーっとしているだけの方がずっと良い。
低俗な情報はドラッグのように扱うべき、というのが、今回の結論。

ガベージイン ガベージアウト 質の低いコンテンツを見てはいけない

ガベージイン ガベージアウト 質の低いコンテンツを見てはいけない


データ分析で古くから言われてきた言葉に、「ガベージイン ガベージアウト」というものがある。
ゴミデータを分析してもゴミデータしか出てこないという意味。


人間はある種の箱である。
情報を入れたら、中で過去の記憶と入力された情報を切り貼りして、何かが出力される。
出力されたものを成果と置き換えても良い。


良い成果を上げるには大雑把に2通りのやり方がある
1. 箱の性能を上げる
2. 入力する情報の質を上げる


箱の中に他の人と変わらない情報を入れても、素晴らしい出力がされることもある。
これを天才というのだろう。
だが、これは文字通り天から与えられた才能であり、基本的に箱の性能はコントロールできない。


そうなると、我々は箱の性能が良いと信じて他人と変わらない情報を突っ込み続けるか、もしくは入力される情報の質を取捨選択するしかない。


そして、情報の質を上げるとすると、質の低いものは一切入れるべきではない。
箱の性質から考えて、質の低いものも、高いものも、まとめて出力されると思っていい。
中で都合よく質の低いものをフォルターして、良いものだけが使われる、と考えるのは間違いだ。


ゴシップに触れれば、ゴシップに近いものが出力される。
大衆の時事的な怒りに触れれば、時事的な怒りが出力される。


自分の望む姿と違うもの、言い換えると質が低いと考える情報には、触れてはいけないのだ。
下らないと思いながら見ていても、我々の箱は下らない考えに侵食されてしまう。


質の高いもの、それが何であるかは人によるが、質の高いものを全て消費し尽くすだけでも、人生の持ち時間は恐らく使い果たされることだろう。
そう考えると、質の低いものに費やして良い時間など、1分たりともないのだ。


ハンマー投げ室伏広治は父から下手なフォームは見るべきではないと教えられ、試合で同級生の投擲を見ることなく背を向けていたそうだ。
我々も若き日の室伏広治と同様に、あるいはさらに注意深く、入力される情報の取捨選択をしたほうが良い。

 

実のところ、世の中の天才と呼ばれる人たちは、神話として箱の性能が良いと語られがちであるが、実のところは情報の取捨選択がうまいタイプが相当数いるのではないだろうか。

 

 

「人はあまりにもつまらぬものを読みすぎているよ。

時間を浪費するだけで、何も得るところがない。そもそも人は、いつも驚嘆するものだけを読むべきだ」

ゲーテ

青春ソングがあると良い

駄菓子の味、空気の匂い、女の子の香水、デートに通った河原。

過去の記憶を想起させるフックは沢山ある。

でも、大抵のものには再現性がない。

時間が経てば手に入らないものも多い。

河原は消えてなくなることはないかもしれないが、物理的に遠かったりする。

 

手軽に手に取れて、変わらない数少ないものの一つが音楽だ。

学生時代に何度も聞いていた曲や、散歩中に決まって聞いていた曲。

そういったものは10年経っても20年経っても記憶のフチにこびりついたまま、当時の感情や感覚を想起させてくれる。

 

 

 

信念なき者は勝ち残れない

信念なき者は勝ち残れない


ある競争で抜きん出ようとするならば、人とは違う選択肢を取らなければいけない。
それも一度だけでなく、常に人と違う選択肢を選び続けなくてはいけない。


我々にはそれができない理由が2つある
1. 他の人と同じだと安心する
2. 本能的な理由


1も他の本能的な理由に包括されるのだが、強固なため別に書いている。
我々は多かれ少なかれ、他人と同じだと安心する。
そういう性質を持ち、さらに教育や社会によってその傾向は強められる。
こうした縛りから抜け出さねば、他の人と同じことをして、同じだけのリターンを得て終わる。
多少才能や運に恵まれたなら頭一つ抜きん出られるかもしれないが、構造を越えるほどのリターンは得られない。


我々には本能的な弱点がある。
怠惰であったり、長期的な視野が持てなかったり、感情に振り回されたり。
この本能的な弱点を克服するには、信念や目標といった行動原則を強く定めておかなくてはいけない。
我々はすぐに目標を見失う弱い生き物だ。
だからこそ、信念、言い換えると超長期的な視野を持つことで、本能的な弱点を克服する必要がある。

 

信念があれば上手く行く、と言うわけではないが、信念なき者は大衆から抜け出すことは難しい。