一生モノについて考える

先日、自分の財布が購入から10年ほど経過していることに気づいた。

大したメンテもしてないし、10年経っているにも関わらず、まだまだ持ちそうだ。

もしかすると一生持つかもしれない。

そうして、一生モノについて考えてみることにした。

 

一生モノにはいくつかの条件がある。

1. 物理的に持つこと

2. 機能的に時代遅れにならないこと

3. 買い替えのサイクルが長い(一生で購入する回数が少ない)こと

4. 流行の影響を受けにくい

 

 

物理的に持つというのは当たり前のことだろう。

合皮の財布を一生使い続けるというのは不可能だ。

修理が効くということも大切だ。

革が長持ちしても、金具やステッチ糸は恐らく革よりも寿命が短い。

これらを修理してくれるメンテナンスも含めて物理的に長持ちすること。

こう考えると、一生モノの材質はかなり限られてくる。

 

 

機能的に時代遅れにならない。

電子機器がこれにあたるだろう。

スマホやPCはあっと言う間に時代遅れになる。

ジョブズ時代の初代iPhoneがどれだけ好きでも、現代に初代iPhoneを使い続けるのはキツい。

アプリのDLすらできないはずだ。

機能性が主目的の商品は一生モノ足り得ない。

これは大人しく最新の良いものを使うに限る。

 

 

買い替えのサイクルが長い。

頻繁に買い換えるものは、時代遅れになりやすい。

例えば服。

多くの人が毎年何らかの服を買う。

その度に新しい服を買う。

興味のない人が適当にユニクロで買ったとしても、やはり今のトレンドに沿った服を買うことになる。

結果的に、古いものは時代遅れになりやすい。

 

 

また、流行の影響を受けやすい、受けにくいという話もある。

服は意図的に流行を作り出すことで儲けを出す商売だ。

年に数回開かれるコレクションにおいて上流で作られた流行がゆっくりと下流に流れてくる。

時代遅れの服は機能に問題なく、物理的に着られたとしても、それが時代的に良いかはまた別だ。

10年前の服も、100年前の服も、たとえ着られたとしても、流行的に恐らく着られない。

10年前のメンズファッションをググってもらうと良いのだが、ピタピタの細身の服を着ている。

脚のラインが全部出るスキニーパンツに、ちょっと動くと破れそうなほど身幅が狭く着丈の短いシャツ、それにハットを被っていた(ように思う)

これを今年着るのは流石に厳しいだろう。

 

 

上記を踏まえた上で、一生モノって何だろうかと考えてみる。

例えば革財布と革靴はどうだろうか。

革は物理的には長持ちするし、クラシカルな形なら流行り廃りが少ない。

頻繁に買い換えるものでもないし、一生モノと言えなくはない。

ただ、求められる財布はやはり10年前と現代では異なる。

10年前はキャッシュレスはクレカとIC決済のみで、しかも個人店では使えないことも多かった。

だから、現金とクレカが入る長財布がメインだった。

でも、現代では長財布は大きすぎてオーバースペックだろう。

ミニ財布やキャッシュレス財布の時代だ。

 

革靴も廃れてはいない。

でも、街を見渡してみて、プライベートで革靴を好んで履く人はあまり多くはない。

機能性では革靴よりもスニーカーの方が圧倒的に良い。

歩きやすいし手入れも楽だ。

ビジネスシーンでもスーツスタイルそのものが減少しつつある。

 

そういうわけで、今後50年も安泰か、と言われると何とも言えない。

 

 

他には食器があるだろう。

陶磁器は100年以上平気で持つ。

現代に李氏朝鮮の食器を普通に手に入れることができる。

食器は10年単位では時代遅れにならないし、むしろ古いものが尊ばれる風潮にある。

家の食器を見てみても、数年ものや十年以上使っている食器があるだろう。

ぼくの場合、実家や祖父母宅から持ってきた、下手をすると自分よりも長生きしている食器がある。

 

でも、やっぱりこれも時代とともに機能性は変わっていく。

今の食器は圧倒的に丈夫だ。

古いものを食洗機に入れるのは、ちょっと気が引ける。

ぼくはそれでも平気で入れているのだが。

現代の食器は食洗機対応していて、ちょっとやそっとで割れない安心感がある。

それに釉薬も進歩していて、昔の食器を使うには、水につけたり、米のとぎ汁につけたりして使う必要がある。

食器でも長い目で見ると確実に進歩している。

まあ、それでも服と食器のどちらが一生モノに近いかといえば、圧倒的に食器だ。

 

そもそも、食器のようなものは、アンティーク市場がある。

アンティーク市場があるということは、それ自体が長持ちして、価値が薄れにくい(時代遅れになりにくい)ということである。

アンティークがあるジャンルのもの、あるいはアンティークそのものを買って使い続けるというのは、一生モノへの近道かもしれない。

 

 

たぶん、自分が強く興味を寄せるものよりは、あまり気に留めないものの方が一生モノ足りうる。

上記の財布や食器も、積極的に使いたいから長く使っているわけではない。

むしろ、別に興味もないし、特に買い換えるほどの理由が無かったから、惰性で使っていたら10年経っていたというだけなのだ。

強く興味があって、もっと良いものを、もっと便利なものを、と思っていたらとっくに買い替えていただろう。

気がついてたら一生使っていた、というくらい興味がないものの方が、ひょっとすると一生モノ足りうるのかもしれない。

だとすると、愛着や感慨なんてものはなく、何とも味気ない。

 

 

 

長々と書いて、何が一生モノかは明言できずにここまで来た。

でも、最後に確実に一生モノと言えるものが、たった一つだけある。

それは自分自身だ。

自分の心身は一生モノだろう。

健康な心身を育むこと、体のメンテナンスを欠かさず丁寧に扱うこと。

精神を追い込みすぎず、適切に扱う術を身につけること。

 

物が好きな人を見ていると、物を丁寧にケアする人が多い。

たとえば革靴。

靴を履いたらシューキーパーを入れ、ブラシを掛け、週末にはオイルを塗ってピカピカに磨き防水スプレーをかける。

靴を履いたら数日間は履かずに休ませる。

それと同じように、それ以上に、自分の体のケアを丁寧に行い、自分を育てていく。

一生モノを手にしたいのなら、まずは自分自身を丁寧に育てていこう。