地味で退屈なことと向き合う

地味で泥臭くやることが、最も効率的ということはよくある。

たとえば、目新しい技術や仕事術に目移りを繰り返すよりも、枯れた技術や仕事術で淡々と目の前の仕事をこなすことの方が、よっぽど効率的だったりする。

 

もう一つ例をあげると、筋トレのKISS原則というのがある。

KISS原則というのは、Keep It Simple Stupid(シンプルさを維持しろ馬鹿野郎)という意味だ。

筋トレのKISS原則とは、BIG3に代表される、平凡でキツい種目だけをやれ。

目新しい種目に逃げるなということである。

 

上記の例で伝わったのかは分からない。

けれど、地味で泥臭いことがなぜ有効なのかというと、3つの理由がある。

 

1. 本質的なキツさはどの手法でも変わらない

2. 地味で泥臭い方法は時間の淘汰を生き残った手法である

3. 退屈ゆえの優位性

 

1について

銀の弾丸はないという言葉がある。

言い換えると、魔法の解決策はないということだろうか。

仕事で言えば、どれだけ仕事術を変えてみたところで、複雑なアルゴリズムを考えたり、物分りの悪い顧客を説得するという本質的な難しさはそこまで変わらない。

筋トレであれば、一定のボリュームが筋肥大に欠かせないので、種目を変えたところでどのみちキツいのだ、という話である。

プログラミング言語や環境が洗練されていたり、筋トレ理論が科学で進歩しつつあるのは事実。

でも、それを取り入れたとしても、本質的なキツさから目を背けては成果は出ない。

勉強法マニアの受験生が大学受験で成功しないように。

 

 

2について

地味で泥臭い方法というのは、派手さや目新しさはない。

けれども、時間の淘汰を経て生き残ったエリート中のエリートだったりする。

使えない方法はどんどん廃れていき、使える方法だけが生き残る。

つまり、枯れた方法というのは、それなりに優れた方法であるということが多い。

仕事で言えば、優先順位をつけて、タスクを細かく切り分けて、というGTDの手法はここ半世紀くらいあまり変わっていないのではないだろうか。

この優れた手法を捨てて、目新しいだけの時間の淘汰を経ていない手法に飛びつくのは、実のところあまり賢い選択ではないかもしれない。

癌の治療では、標準治療が淘汰を経て生き残った最高の治療にも関わらず、目新しいだけの先端医療を行って亡くなる人がいると聞く。

世の中のいろんな場所でこういう現象が起こっていそうだ。

 

3について

退屈でキツいけど確実に成果が出る手法というのは、世間的にウケが悪い。

それで成功してもセンセーショナルに取り上げられることはない。

本質的なキツさを解消してくれるわけではないことを皆知っている。

確実に成果が出るのは分かっているが、必要なアウトプットを得るための努力量が可視化されてしまうので、どうしても気が滅入ってしまう。

飽きるし退屈でもある。

しかし、それ故にその手法は有効なのだ。

他の人が地道に続けられないということは、この手垢にまみれた退屈でキツい枯れたやり方を地道に続けられる人はそう多くない。

皆が知っているならレッドオーシャンで競争が激化していて旨味がないと思うかもしれないが、よく見てみると実はそこまでレッドオーシャンではなかったりする。

バフェット式ファンダメンタルズ長期投資は王道だけど、実はその実践者がそう多くないという話がある。

ゆっくりとしか金持ちになれず(バフェット談)、たまに起こる大暴落でかなりの損失を被る。

バフェットはともかく、フォロワーはもっとゆっくりとしか成果が出ず、バフェット以上に暴落を食らうこともある。

だからこの方法は未だに優位性があるのだ、とバフェットフォロワーの人が言っていたのを思い出す。

 

そういうわけで、地味で泥臭いけど確実に成果が出る方法というのは、実のところかなり効率的なやり方なのではないかと思う。

と言いつつも、あまりできていないことが多いのだけど。

村上春樹式の小説執筆術とか、できる研究者の論文生産術みたいな方法に憧れがある。

どこかに銀の弾丸がないかと探し求めるのも悪くはないけれど、足元に転がっている9mm弾で愚直に戦う覚悟を決める方が戦果が上がるかもしれない。